謗法とは

謗法とは凡そ謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり(真言見聞)」

三宝すなわち仏法僧は一体であるから、法を謗ることは同時に仏と僧を謗ることであるとの仰せです。

この御金言は、法を尊ぶ体をしていても仏や僧を謗ったならば、それは法をも否定していることになり、仏を敬うふりをしていても、法を曲げたり僧を侮ったりすれば、それは仏を足蹴にしているのと同じになる、とも読むことができるでしょう。

そもそも、私たちの現時における不幸は、過去世における謗法の罪であると言われます。
私たちの記憶にない過去世(前世とその前の人生)において、私たちは、仏法僧のいずれか(すなわち仏法僧の総て)を侮り謗り否定し背いた、ことは明らかです。

こうした謗法の果報を「罰(ばつ・ばち)」と言い、私たちが被る不幸な出来事は謗法の罰であるから、仏様であると同時に法であるところの御本尊様を拝み、妙法蓮華経に南無することでその償いをすれば、謗法の罪が消えるから悪現証が消え、信心の功徳が積まれ未来には善現証が起きる、と教えられています。

ただし、謗法の罪により悪現証が起きている現時においてなお、新たに謗法の罪を犯せば、須らく未来にも悪現証(不幸)は起き続け、死後は地獄に堕ちることになる、とも言われています。

「京都見物」は謗法ではない

物見遊山なんどには神社へ参らせん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり(総本山第九世日有上人・化儀抄)」

要するに、信心をもたずに神社仏閣を訪れるのは禁止しないとおっしゃっているわけです。
そのかわり、邪宗の信者のように信をもったり手を合わせたり布施をしたりするようなことがあれば、それは謗法の罪を免れないということになります。

なお、「靖国神社」も謗法ではありません。
あそこに祀られている神様は「戦没者の英霊」ですから、 「英霊に感謝し供養する気持ち」は謗法ではありません。
わざわざ出向いて手を合わせる必要は特にありませんが、冒頭の御指南にあるとおり、なにかの付き合いで境内へ入る必要に迫られた際には、固辞するには及ばないということになります。

恐るべき「十四誹謗」

『悪の因に十四あり。一に驕慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり』と。此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし(松野殿御返事)」

これは重要な御金言とされてはいますが、かなり難解な部分も多いものです。
要するに、外形的な謗法よりも、内心の謗法が目に見えにくくより恐ろしいということになりそうです。

堕地獄必定の「五逆罪」

五逆罪とは、「母を殺すこと,父を殺すこと,阿羅漢を殺すこと,仏身より血を出させること,僧団の和合を破壊すること」の5つを指します。

私たちが普段最も犯しやすいのは最後の「破和合僧」でしょう。
この義を正確に知ることは、間違っても地獄に堕ちないための一つの勘所と言えます。

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