日蓮大聖人の血脈に二義あり

一に法体の血脈、これは、日興上人以来代々の上人様へ伝わるとされる血脈です。
二に信心の血脈、これは、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊を指して言います。

このことは、血脈にも総別の差別があることを示しています。
法華経も同じことで、私たちが読むことのできる経典は、総付嘱の法華経です。
これに対し、釈尊が並み居る高弟たちをさしおいて、地涌の菩薩の頭領である上行菩薩ただお一人へ付嘱したのが、別付嘱の法華経です。

この別付嘱の法華経を認めず、普通の経典のみを法華経と言っているのが、日蓮宗などの邪宗であり、法華経の大功徳を得ることはできません。
別付嘱を認めないので、日蓮大聖人を仏様と呼ばず、日興上人をも師と仰がず、大御本尊も特別視しないという、まことにつたない姿になってしまったのが日蓮宗です。

要するに、別付嘱の法体の血脈(唯授一人の血脈)を無視すれば、大御本尊の功徳は微塵も流れ下ってはこないわけです。

血脈と信心の関係について

信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり(総本山第九世日有上人・化儀抄)」

このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞしてほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちが(違)い候へば、おな(同)じほくゑ(法華)をたも(持)ちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)にお(堕)ち候也(法華講衆御返事)」

此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)」

日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰はく深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(御本尊七箇相承)」

要するに、信があっても血脈に繋がらなければ堕地獄であると仰せられているわけで、確かに、信じていますというだけで良いなら、身延や創価学会を殊更に非難する必要もなくなるわけで、仲良く一緒にやるべきであるということにもなってしまいかねません。

本尊とは

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云(御義口伝)」

日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)」

本尊とはすなわち御本仏その御方と拝し信をいたすべき対象です。
本尊こそが本当の仏様と言ってもよいのです。

夫(そ)れ本尊とは所縁の境なり、境能(よ)く智を発(おこ)し、智亦(また)行を導く。故に境若し正しからざる則(とき)んば智行も亦随って正しからず(総本山第二十六世日寛上人・文底秘沈抄)」

日寛上人は、本尊を境(対境)としてみたとき私たちの外から私たちのいのちを変えてくださると御指南くださいました。
ただし、対境としての本尊が正しくなければ、私たちのいのちも正しくない方向へ変わるとおっしゃっています。

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